気分はまだ戦争
○田園風景
田園に屋敷が点在している。
○田中邸・外観/昼
白壁で囲われ、しっかりとした屋敷の造り、歴史を感じさせる旧家の屋敷。
金髪の白人青年シェスコバ(37歳)が歩いてくる。
○田中邸・玄関/昼
シェスコバが玄関の辺りを見回している。
農作業姿をした田中幸蔵(67歳)が中から出てくる。
シェスコバが幸蔵に話しかける。シェスコバは流暢な日本語を使う。
シェスコバ「田中さん?」
幸蔵がシェスコバを怪しげに見る。
シェスコバ「私、ハンガリーから来ました、シェスコバと申します」
幸蔵はシェスコバを見つめたまま。
シェスコバ「お父様、与三郎様はご存命でしょうか?」
幸蔵「与三郎は、とうに死にましたが」
シェスコバ「あぁ」
シェスコバが肩を落とす。
シェスコバ「ぜひお仏壇に手を合わせて、お礼を申し上げたいのですが」
幸蔵「はぁ、外人さんが、どういうご用件でしょう?」
○田中邸・室内/昼
縁側に面した広い部屋に置かれた仏壇の前で、シェスコバが手を合わせている。
幸蔵は後ろに座り、様子を見ている。
シェスコバは祈り終わると、幸蔵の方へ体を向け、バックの中からお菓子を差し出す。
シェスコバ「お口にあうか分かりませんが」
幸蔵「そんな」
シェスコバ「ほんの気持ちです」
シェスコバが幸蔵に手渡しする。
幸蔵「じゃ、すみません。(お菓子を見て)あなたの国の?」
シェスコバ「はい、ハンガリーのお菓子です」
幸蔵「ハンガリーから、うちの親父に?どういうことですか?」
廊下を歩く音がする。
田中香代(65歳)が箱を部屋に持って入ってくる。
香代「これのこと?」
幸蔵「そうそう」
香代が幸蔵の横に座り、箱を置く。
幸蔵が箱を開けると、中に古い写真。
幸蔵「親父が戦争に行ってた時代のものは、この写真しか残ってないんですけど」
写真は軍服姿の与三郎の写真が数枚。
シェスコバが写真に祈りを捧げる仕草をする。
シェスコバ「数百万人のハンガリーの人々を救ってくれた恩人です、ありがとうございます」
香代「どういう話なんですか?」
幸蔵「うちの親父、スパイだったんだって」
香代「シベリアかどこかに行ってたとは聞いたことあるけど」
幸蔵「戦争時代のことは、息子の俺にも何も話そうとはしなかったけどな」
シェスコバ「本当の工作員は歴史に名を残しません。公になってしまった時点で、その工作は失敗だからです」
香代「お義父さん、なにをしたんですか?」
幸蔵「(香代に)ハンガリーが日本と組んで、ソ連と戦争する計画を土壇場で止めたらしい」
香代がポカンとした表情。
シェスコバ「計画は世界大戦の末期の頃の話です。そのまま戦争を挑んでいれば、ハンガリーはソビエトに国ごと潰されていたでしょう」
幸蔵「日本軍の命令を無視して、うちの親父がハンガリーの官僚に止めるように説得したらしい」
シェスコバ「ソビエトの軍事情報を流してくれたのです」
香代「スパイ?」
シェスコバ「そうです、与三郎さんは、本物のスパイだったのです」
香代「映画みたいな」
幸蔵「俺は百姓やってる親父しか知らなかったけど」
シェスコバ「実は、もう一つ秘密があります」
幸蔵「秘密?」
シェスコバ「ハンガリーの資産家たちは、ソビエトに財産を没収されるのをおそれて、スイスの銀行に口座を作りました」
香代「銀行口座?」
シェスコバ「はい、口座の名前は与三郎基金といわれています」
幸蔵「親父の名前が」
シェスコバ「今でも口座には8億ドルが預けられたままです」
香代「8億ドルって?」
シェスコバ「800億円です。先日、この口座の管理人が亡くなり、遺書には与三郎の子孫に50%を贈与すると記載されていました」
幸蔵「半分、400億?」
シェスコバ「はい。ただし、スイス銀行との取引には代理人が必要になります」
香代「行政書士のような?」
シェスコバ「そうです」
幸蔵「雇うのにはお金がかかるんだろ?」
シェスコバ「相場は取引額の0.1%、400億円だと4000万円」
香代「無理だわ」
シェスコバ「土地や貴重品などの財産をお持ちでしたら、お金に換えてでも取引をする価値はあると思いますよ」
幸蔵「う〜ん」
シェスコバが仏壇を見る。
シェスコバ「何よりも、一番喜ばれるのはお父様だと思います」
幸蔵「どれだけの用意ができるか、一日考えさせて欲しい。この辺りには、いつまでいるのかな?」
シェスコバ「三日ほど滞在して、その後、東京に戻る予定です」
幸蔵「じゃぁ明日の夕方、もう一度、来てくれるかな。せっかくだから、うまいもんご馳走するよ」
シェスコバ「ありがとうございます」
○田中邸・外観/夕方
シェスコバが歩いてくる。
○田中邸内・客間/夜
シェスコバ、幸蔵、香代が楽しそうに食事をしている。
シェスコバ「もう、お腹いっぱいです」
幸蔵「田舎料理もいいもんでしょ」
シェスコバ「おいしいです、ふぅ。さて、幸蔵さん、昨日の話、考えはまとまりましたか?」
幸蔵「(香代に)ほら」
香代「はい」
香代が立ち上がり、席を外す。
シェスコバが微笑む。
幸蔵「ちょっと待っててください」
香代が戻ってくる。
香代の後ろから杉浦義信(98歳)が現れる。
杉浦は背筋を伸ばし、矍鑠とした老人である。
シェスコバ「(幸蔵に)あの方は?」
幸蔵「杉浦さん、今回、私たちにお金を用立てしてくれる方です」
微笑みを浮かべた杉浦がシェスコバに握手を求める。
杉浦「どうも、杉浦です」
シェスコバが立ち上がり、杉浦と握手をする。
杉浦「車を用意してる。急いでいるようだから、早速、うちの事務所で手続きについて聞かせてもらえないか?」
シェスコバが幸蔵の方を見る。
幸蔵「私たちのことは杉浦さんに一任してますから」
シェスコバ「では、まずはお話だけでも」
杉浦「食事の途中で、すまないね」
○走行する車/夜
静かな道を高級車が走っている。
○車内/夜
車内の前部席には運転手、後部席には杉浦とシェスコバが乗っている。
シェスコバ「田中さんとは古いお付き合い?」
杉浦「ええ、与三郎さんと同じ、シベリアからの帰還兵です」
シェスコバ「ほう」
杉浦が矢継ぎ早に外国語で話かける。
シェスコバ「(聞き取れない様子で)え?」
杉浦が再び矢継ぎ早に外国語で話かける。
シェスコバ「どこ日本語ですか?」
杉浦「チェコ、ハンガリー、ブルガリア、ユーゴ、色んな国の言葉で話してみたんだが、おかしいな、あなたは東欧から来た友人ではないようだ」
シェスコバが微笑んだまま応えない。
杉浦「シベリア抑留者のリストを手に入れた詐欺師が遺族を狙って悪事を働いているらしくてね」
シェスコバが微笑む。
シェスコバ「私が?」
杉浦「工作員だったという作り話を使って」
シェスコバ「説明させて下さい」
杉浦「知らないと思うが、ソビエトはね、大戦が始まる前、最初に日本と戦争をする予定だったんだよ。それを阻止していたのが我々の任務だ」
シェスコバ「あ、あなた」
杉浦「そう、工作員。だが任務を完遂できなかった、終戦間際に新しい戦争が始まった。それで何万人もの邦人の命がシベリアに散ってしまった。それを思うと今でも自分の無力さに腹が立つ」
杉浦がハンカチで鼻をぬぐう。
杉浦「軍人としての任務は終わっても、私の命がある限り、あの地で奪われた魂を守る任務は終わってない」
杉浦がシェスコバの顔を触る。
シェスコバは動かない。
杉浦「本物の工作員は歴史に残らない、遺族たちにそう言ったんだろ、その通りだよ。刃物や拳銃で殺しては目立ってしまう、私たちは毒薬を使っていた、食事に混ぜてね」
杉浦が腕時計を見る。
杉浦「食後2時間、しびれが始まった。もう体の自由はきかない、あと30分もすれば、そのまま呼吸が止まる」
杉浦が携帯電話をかける。
電話の相手は幸蔵。
杉浦「(幸蔵に)どうも杉浦です。ご協力ありがとうございました」
幸蔵の声「どうでしたか?間違いありませんでしたか?」
杉浦「(幸蔵に)ええ、遺族会の皆さんに注意を呼びかけてた詐欺師です、白状しました」
幸蔵の声「警察へ連れていくんですか?」
杉浦「(幸蔵に)反省しているようですから、一旦、戻して、その後は本人の判断に任せます」
幸蔵の声「色々助かりました、ありがとうございます」
杉浦「(幸蔵に)遺族会の世話人として当たり前の仕事です」
幸蔵の声「ありがとうございます」
杉浦が、電話を耳に当てたまま、ゆっくりと微笑む。
○走行する車/夜
車は人里離れた道を走っている。